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樹木希林 80の言葉 自分らしい生き方を貫く

樹木希林 80の言葉 自分らしい生き方を貫く 📕樹木希林 80の言葉 自分らしい生き方を貫くより抜粋シェア💕 【1 人のせいにせず、 すべて自分が引き受ける】 『原因は全部自分にあると思ってればね、 愚痴は出ないのよ。』 対人関係も含め、世の中というのは思い通りにならないものです。 結果、「もうちょっと景気が良ければなあ」 「夫の稼ぎがもっとよければ」 「子どもの出来がもうちょっとよければ 」などと愚痴をこぼしながら生きていくことになります。 しかし、 樹木希林の娘 内田也哉子(ややこ) によると、 「お母さんって愚痴っていうのを言ったことがない」といいます。 樹木の人生ははたから見ると決して順風満帆とは言えません。 夫の歌手. 内田裕也は時に問題を起こすこともあり、別居していたとはいえ気苦労の多い結婚生活 、夫婦生活を送っていますし、 子育ても一人で担っています。 さらに後半生は病との闘いでもありました。 これではたいていの人なら愚痴を言いたくなるものですが、樹木はややこが言うように、愚痴を言うことはまずありませんでした。 「原因は全部自分にあると思ってればね、愚痴は出ないのよ」 樹木によると、 「人のせいにしていると(人間として)なかなか成熟しない」といいます。 それより、何があっても、どんな結末でも「すべては自分が引き受ける 」という覚悟さえあれば、愚痴など出ないし、 考えるべきは「ここからどうするか」だけなのです。 【2 日常をしっかり生きてこそ 「まさか」 に対応できる】 『誰もが何が起こるかわからない日常を生きていて 、何か起こった時に、今度はこう来たかと思って乗り越えていくしかない。そのためには、普段から日常をしっかり生きることが大切。』 ものづくりの世界では、 災害や事故といった大事において冷静に対処するためには、小さな事故が起きた時の対応が大切だと言われます。 普段から当たり前のことを当たり前に、しかし 徹底してやっておけば、大事においても慌てずに対応できますが、それを怠ると大事に際して ただ慌てふためくことになるのです。 樹木希林は普段からスタイリストなどをつけず、 すべてを自分でこなしていました。 ある時、映画『海よりもまだ深く』で共演した俳優の橋爪功と雑誌の表紙写真を撮影することになった樹木ですが、 撮影後にそのまま成田空港に向かうため、樹木が用意していたのは黒の洋服1点のみでした。 ところが、現場で編集者が希望したのは「 春らしい服」でした。 樹木はとっさに、橋爪のスタリストが橋爪用に用意していた予備の洋服の中から選んで撮影に臨みますが、それはしっかりと「春らしい絵」になったのです。 普通の人ならパニックになるところですが、普段から自分でスタイリングをしていた樹木にとってはそれほど難しいことではありませんでした。 人生には「まさか」がつきものですが、そんな時に慌てないためにも「普段から日常をしっかり生きなければならない」が 樹木の考え方です。 【7 欲にとらわれるな 、信じる道を進めなくなる】 『私のことを怖いという人もいるけど、それは私に欲というものがないからでしょう。』 樹木希林は若い頃から 誰に対しても、言いたいことははっきりと言ってきました。 あるテレビドラマの収録でのことです。 ディレクターが台本だけ見て、顔も上げずに「 用意、スタート」「はい 、オッケーです」と言ったところ、樹木は「なんで今のがオッケーなの?」 と聞き返しました。 慌てたディレクターが「あ、じゃあもう1回」と言ったので、樹木が「どこを直すの?」 と質問したら、「じゃあ、いいです」となったといいます。 そのディレクターは後にそのテレビ局の社長になりますが、樹木は当時を振り返って「 ケンカはしとくもんだな」 と話しています。 特にいいことがあったというわけではなく、相手が誰であれ、言うべきことは言うというのが樹木 の若い頃からのスタイルでした。 そんな樹木を「怖い人」と評する人もいますが 、樹木は意に介していません。 樹木がなぜ怖いのか。 それは「欲がないから」というのが樹木 の考えです。 人間は欲や執着があると、 それが弱みになりますが樹木にはそうした執着はなく、「 人としてどう生きるか」が一番の関心事だといいます。 権威や権力を持つ人にとって最も怖いのは、実は 樹木のような「無欲な人」なのです。 【10 先の見えない 辛かった時期を忘れるな】 『目標がないというのはあれね、本当につらいものね。 (中略) でも、人生の転換期にはちょうど必要な時間だったんじゃないかしら。 樹木希林が役者の道へ進んだのは運命のいたずら からでした。 幼い頃にはほとんど口をきかない子供だった樹木 ですが、 成績はよく、 中高一貫千代田女学園 では全校生徒の中で2人だけの「優等生」になったほどです。 卒業後の進路は「お前のように生意気な子は、結婚してもすぐ別れるだろうから、食いっぱぐれのないように、資格があった方がいい」という父親の勧めで薬科大学の受験を決めています。 しかし、数学が苦手な 樹木は、何校か願書を取り寄せ、受験勉強はしたものの、「もうだめだろうな」と諦めかけてもいました。 そんな時、父親が北海道の夕張に遊びに行くことになり、ついて行った樹木はスキーの真似事をして足を骨折したのです。 卒業式にも出席できず、 受験もできなかった樹木は「1人で取り残された感じ」になり、 この時の 疎外感や絶望感は晩年になっても忘れられなかったといいます。 樹木は2ヶ月間も外に出られませんでしたが、その時に見つけたのが 劇団の研究生募集で、それが樹木を役者の道へ進ませることとなったのです。 それは樹木が考えてもいなかった道でしたが、 家にいるだけの 2ヶ月間は「人生の転換期にはちょうど必要な時間」だったのです。 【11  隠さず、逃げず 、正直にさらけ出せ】 『隠したいと思うから、 人はのぞきたいんです。 「私、こんなです❗」と出してしまえば、人は、「結構です。もう結構です❗」と言うもんです。 「世界一の投資家」 ウォーレン.バフェットが自分の子どもたちに言い聞かせていたことの一つは「どんな状況であっても、嘘をついてはいけない。見たまま、聞いたまま隠さずに話しておけば 、もめ事に巻き込まれることはないはずだ」 です。 樹木希林の夫.内田裕也は、時に週刊誌やワイドショーで騒がれるような問題を起こすことがありましたが、そんな時も 樹木は決して逃げ隠れせず、 記者を招いて取材に応じています。 理由は「逃げたら絶対に追いかけてくる」からです。 反対に「私、こんなです❗」と自分からさらけ出してしまえば、たいていの人は 「もう結構です❗」となるものです。 樹木によると、 人前に自分をさらけ出す役者という仕事をして、ほとんどは損したなと思うものの 、「得したな という点」が一つだけあるといそいます。 それは、自分をさらすことで「自分を客観的に見ることができる」ことです。 客観的に見れば、危機 の時に何をすべきかを冷静に判断できます。 隠したいことがあると、人はそれを知りたいと思いますが、 こちらから正直に出れば誰もそれ以上追いかけようとはしなくなるのです。 そんなマスコミや人間のやじ馬根性を知る樹木 は、危機管理の達人でもあったのです。 【27  おかしいことを おかしいと言えるからこそ信頼される】 『美しくない人がどうして美しく写るんですか』 樹木希林はドラマや映画だけでなく、たくさんの CMに出演して、強烈な印象を残したことでも 知られています。 例えば、 磁器治療器「ピップエレキバン」の CMで、同社の会長.横矢勲とのコンビが大評判になりましたが、樹木によると素人の会長とのやり取りは「馴れ合わないから、 すごくいい」ものになったといいます。 さらに強烈な印象を残したのが フジカラーのCM での女優.岸本加世子との掛け合いです。 最初の案では写真店を訪ねた 樹木への岸本のセリフは「美しい人は美しく。 美しくない人も美しく写ります」でしたが、 それに異を唱えたのが樹木でした。 樹木は、どんな人に対しても「おかしいでしょ」 と言える人でした。 仕事などでもそうですが 、たいていの人は「おかしい」と感じても、周りのことを気にして言わずに飲み込んでしまいがちです。 しかし、それではいいものが生まれることはありません。 樹木の「おかしいことはおかしいでしょと言える」という姿勢から生まれたのが「 そうでない方はそれなりに写ります」 というセリフであり、おかげでCMは大ヒットすることになったのです。 【28  言いたいことは我慢せず、代わりに保険をかけておく】 『言わなくていいことはないと思う。やっぱり言った方がいいのよ。』 樹木希林は住宅情報誌や不動産関係のチラシが大好きでした。 新幹線で東京から岡山に行く間ずっと読みふけっていたところ、降りる際に横を見たら俳優の花沢徳衛が座っていてあきれられたというほどです。 数々の不動産物件を持つ 「家道楽」でもありましたが、その理由はいかにも樹木らしいものでした。 「私はケンカっ早いから、絶対どこかで仕事を干されて 食いっぱぐれる、と。 じゃあ、食いっぱぐれないように家賃収入で食えるようにしとこう」 その言葉通り、 樹木は若い頃から遠慮のない物言いで知られていました。 例えば、ちょい役で出た作品でも、的外れな評価をされれば、その人の 首根っこをつかまえて、「この映画はこういうことなんだよ」と言わずにいられなかったし、 あるディレクターに言いたいことを言ったところ、その人はそれがきっかけで報道に移ったといいますから、相手が誰であれ 「言わなくていいことはない」し、言うべきことは「言った方がいい」というのが 樹木 の心情だったのです。 たいていの人は言いたいことがあっても我慢するものですが、そうしないために、一方で家賃収入という「保険」もかけておくところに 樹木の凄さがあります。 【32  他人も自分も、あるがままに受け入れる】 『ああ、そうなんだ、 この人はこういう性格 なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない。』 「結局のところ、我々には対人関係以外の問題はないように見える」 とは 心理学者アルフレッド.アドラーの言葉です。 なぜなら、仕事に限らず、世の中に1人で成立する物事は少なく、 たいていは人と人、人から人へという協力があって初めて成り立つからです 。 それだけに人と人との関係は厄介で、悩みの多くにも人に関わるものにならざるを得ませんが、 樹木希林は厄介なはずの家族関係などについても「我慢や無理はしていないですよ」 と言い切っています。 娘. 内田ややこの夫は俳優の本木雅弘です。 本木とは「全然性格が違うし、よくわからなかった」と言っていますが、いつの間にか「 円満になっちゃった」 とも言っています。 理由は「この人はこういう性格なんだと思うだけで、どうこうしようと思わない」からです。 言わば、あるがままに受け入れるということでしょうか。 「昨日と他人は変えられないが、明日と自分は変えられる」とよく言われますが、樹木の場合は他人を変えようとしないだけでなく、 自分も変えようとはしませんでした。 「存在をそのままに、あるがままに認める」ことが、樹木にとっての対人関係のあり方なのです。 【43  己の死に様を子どもや孫に見せる】 『人は死ぬと実感できれば、しっかり生きられると思う。』 樹木希林は早くから「ゆくゆくは子どもと一緒に住みます」 と公言していました。 理由は樹木にとっては1人で暮らす方が気楽でも「うちの娘なり、婿なりその子どもたちが、私の死に際を実感として感じられる」からというものでした。 樹木は芸能人の役割の一つとしてこんなことを言っています。 「ひょっとして芸能人のこの世での役は、死に目に出会わなくなった 世の人々に、己の死にざまをお見せすることかもしれません」 「人が死ぬ」、まして 「身内が死ぬ」というのは悲しいことですが、 早いうちに「人が死ぬ」ことを間近で見て、死というものを実感すれば、 その人は真剣に「今を生きる」ことができるというのが 樹木の考えでした。 実際、娘のややこも、夫の本木雅弘とその子どもたちも、臨終に立ち会っています。 イギリスで育った8歳のゲントは英語で「マミー 、大丈夫。身体はなくなっても、魂はずっとそばにいるんだよ」 と言ったといいますが、 それを聞いてややこは母は、「母はこれを意図していたんだな」と実感したといいます。 人は身近な人の死を体験することで、「かけがえのない 1日1日を生きる」ことの大切さを知るのです。 【45  「向こうが悪い」と言い続けても何も生まれない】 『私は昔から日本人が持つ、自分が悪いかどうかわからなくても「ごめんなさい」と言う気持ちが好きです。』 外国の人たちが、何か問題が起きた時、たとえ自分に非があっても簡単には「 ソーリー」 と言わないのはよく言われることですが、 こうした姿勢に対して 樹木希林は「 とんでもない。向こうが悪いんだ」と言い続けて、「何が生まれるのでしょう 」と疑問を抱いていました。 樹木は内田裕也と結婚したことでいろいろな問題に巻き込まれています。 結婚する前には内田の抱えていた借金を全て精算し、結婚してからも内田が知人に作った借金を返済するために先方を訪問して、「どうか、もう二度と裕也には貸さないでください」と頭を下げています。 CMで初共演した直後に内田が逮捕された時には 、樹木が記者会見を開いてもいます。 いずれも「向こうが悪い」はずですが、樹木 は「それを言ってしまっては修復にならない」からと、自分が全てを引き受けています。 晩年には 内田ではなく、樹木の方が内田に対して「今日まで色々すみませんでした」と謝罪もしています。 その日の夜、 内田と一緒にお酒を飲んだ 知人によると、内田はとても嬉しそうだった と聞いて、 樹木は「これでもう死ねるな」と安堵したそうです 。 【55  「今日やること」があることに感謝し 、精一杯生きる】 『最近の私は、「きょうよう」があることに感謝しながら生きています。』 樹木希林は20代、30代で多くのテレビドラマや CMなどに出演していますし、その後も数々の映画などに出演しながら子育てにも励んでいます。 役者になってからずっと忙しい日々を送ってきたわけですが、2004年に乳がんの手術を行い、 その後、癌の転移が分かっています。 そして、がんと長く付き合う中で、人生観が少しずつ変わったと言います。 2013年の日本アカデミー賞受賞式で全身がんであることを公表した翌年には、こう話しています。 「最近の私は、きょうようがあることに感謝しながら生きています。 教養ではなく、今日、用があるということ」 樹木よると、神様が与えてくださった「今日用」を一つずつ しっかりとこなしていくことが日々の幸せにつながるし、それを積み重ねた結果として、 「最後には、自分は十分に役目を果たした、自分をしっかりと使い切ったという充足感につながる」というのです。 大切なのは、その大小にかかわらず、「今日やること」があることに感謝し、決して手を抜かず、 出し惜しみをすることなく、できることを精一杯やることです。 それこそが幸せであり 、「今日を生きる」ということなのです。 【64  病気を嘆かず、そのメリットに目を向ける】 『私、得してる。 がんになって得してるわあ。 そうやって、得してることがたくさんあるの。』 病気、それも大きな病気にかかると、たいていの人は「 どうして私が…」 と我が身の不幸を嘆くことになりますが、 樹木希林は2004年に乳がんの手術をして以降、 病気を嘆くのではなく、「病気になったことで メリットもある」と前向きにとらえています。 樹木によると、映画などで演技賞をもらったとしても、周りの妬みを交わすことができるうえ、 少々口が滑っても、「まあ、大変な思いもしているのね」とおとがめなしになるというのです。 さらに周囲の人が「 この人は来年はいないかもしれない」と思って、自分と真剣に向き合ってくれるというのです。 そして最も良かったのは、がんと診断されたことで孫と行くことになっていたタイのプーケット への旅行をキャンセルしたところ、 スマトロ島の大地震が起こり、津波で孫を死なせずにすんだことだといいます。 病気になること、まして癌になることはとてもつらいことですが、樹木 は自分と向き合うことが、人生を見直すチャンスにもなったと考えています。 だからこそ「がんになっても得してるわあ」という前向きな向き合い方ができるようになったのではないでしょうか。 【65  最後まで生き切ることが人間冥利】 『私ね、自分の身体は自分のものだと考えていたんですよ。とんでもない 。これ、借りものなんだっていうふうに思えるようになりました。』 90歳を超えた今も「世界一の投資家」として活躍する ウォーレン.バフェットは、人間の身体は精霊が贈ってくれた 「一生で最初にして最後の自動車」で、 人間の肉体も、自動車 を手入れするように大切にしないと、数十年後にはボロボロになってしまうと説いています。 バフェットが自分の身体を精霊からの贈り物と考えて大切にしたように、樹木希林も最初に癌になって以来、自分の身体を「借りもの」と思えるようになったといい、若い頃はわがもの顔でぞんざいに扱ってしまったことについて 樹木は「ごめんなさいねぇ」と謝っています。 そして、こう考えるようになりました。 「これだけ長く癌と付き合っているとね、 いつかは死ぬじゃなくて、 いつでも死ぬという感覚 なんです。 でも、借りていたものをお返しするんだと考えると、すごく楽ですよね」 樹木はものを無駄にせず、最後まで使い切ることを信条としていましたが、自分の身体についても「十分生きて、自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるってこと」と考えていたのです。 【66  「健康が善、病気が悪」の二元論から脱しよう】 『一つのものに表と裏があるように、物事には 善の面もあれば、悪の面もあると私は思うんです』 病気になると、それも樹木希林のように全身がんともなると、 たいていの人は我が身の不幸を 呪いたくなるものです。 ところが 、樹木は「病というものをダメとして、健康であることをいいとするだけなら、こんなつまらない人生はない」と言い切っています。 樹木によると、「今日になって明日っていうのは困るけど、1週間あれば、まあ整理できるから、癌は準備ができて ありがたい」し、 何かを断る時にも、「もう癌で大変なの」と言えば、「あっ、 そうですね」 と相手も納得するというのです。 もちろんがんとの闘いの大変さが変わるわけではありませんが、「がんは面白い」 「癌のおかげでいろんな気づきもあった」と、病によるいい面に目を向けるのが樹木 の癌との向き合い方でした。 表が焦げたトーストもひっくり返すと裏は何ともないということもあるように、物事は角度を変えると違って見えるものです。 大切なのは「病気が悪 、病気でない状態が善」 と二元論的に考えるのではなく、病気にも悪い面もあれば いい面もあることを受け入れることです。 そこから「 本当の意味で人間がたくましくなっていく」と樹木はとらえたのです。 【67  明日を諦めず、 今日を懸命に生きる】 『明日死ぬかも、という覚悟は常にあります。 だけど、人間は明日地球が滅ぶと分かっていても 、今日りんごの木を植えなきゃならないものなのよ』 「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はりんごの木を植える」は、16世紀にローマ.カトリック教会からプロテスタントが分離した「宗教改革」の中心人物、 マルティン.ルターの言葉です。 この言葉は多くの人に引用されていますが、宗教改革とは関係なく、主に2つの意味で使われています。 1つは間近の見返りや成果を求めるのではなく、 将来の希望を育てることの大切さ、素晴らしさを教えるものです。 そしてもう一つは、たとえどんなに辛い状況に置かれても、今の自分にできることを精一杯やることの大切さを説くものです。 樹木希林は医者から「あなたは全身がんですよ」 と告げられています。 それは樹木にとって「死はいつか来るものではなく、いつでも来るもの」というほどの覚悟が必要なものでした。 残された時間は限られているため、「責任のある仕事は入れられない」わけですが、だからと言って決して絶望することはなく、淡々と身近の整理を進め、日々の仕事を精一杯こなすという生き方を貫きました。 「私は始末していく人間だから、無責任なことはできない」という思いこそが、 樹木にとっての「今日リンゴの木を植える」ということでした。 【69  悪い言葉、辛い言葉は いい言葉に置き換える】 『「痛い」じゃなくて、 「ああ気持ちいい」って言い換えちゃう。』 パナソニックの創業者 .松下幸之助は、どんな苦しい状況でも、いつも明るく前を向くために、 言葉の使い方 一つにも気を配るべきだとして、こう言っています。 「苦しむことを難儀と置き換える。難儀はしました。明日食べるご飯がないという生活に直面したことがありますから、 非常に難儀はしました。 しかし、苦しむということはない」 言い方を変えたとしても現実が変わるわけではありませんが、言い換えることで気持ちが前向きになれば、人はそれだけで頑張ることができるのです。 樹木希林は亡くなる2~3ヵ月前になっても、杖をついて知り合いの店を訪ねることがあったといいます。 背中などかなり痛かったようですが、「出かけていた方が気分転換になるし、それがいいのよ」 と話し、仕事もこなしていました。 大変なエネルギーと意志の強さです。 樹木は、放射線治療の後遺症か、「肩がゴキン、うわーっとなる時も、 『痛い』ではなく、『ああ気持ちいいと』と言い換えていたといいます。 痩せ我慢と言えるかもしれませんが、言い換えることで悲壮にならず、 痛みをあるがままに受け入れることができたのではないでしょうか。 言葉には不思議な力があるのです。 【72 死ぬ覚悟は生きる覚悟につながる】 『がんになったことはありがたいことなんだから、(中略)このことを大事にして、そして生きましょうよ。』 がんの経験は人を変えていきます。 アップルの創業者スティーブ.ジョブスは2004年にすい臓癌と診断され、 一度は死を覚悟しています。 幸い手術は成功しますが 、死と向き合ったことで ジョブスは限られた時間をいかに生きるかをこれまで以上に真剣に考えるようになり、人々のために何が残せるかを考え、 iPhoneiPadを世に送り出しました。 樹木希林乳がんを経て全身がんになっていますが、「癌になったことは意味があるの」と前向きにとらえていました。 癌になったことで「人生って、そんなに長くないんだなあ」 と実感し、こう考え始めました。 「癌になったことはありがたいことなんだから、 これでもう死ぬのか❓一瞬でも、自分はもう 命がないんだ…と思えた。このことを大事にして、そして 生きましょうよ」 癌になったことで樹木は死を強く意識するようになります。 しかし、 同時に「病気というものも、やはり神から頂いた賜物だ」と考えるようになったことで、深刻にならず、普通に生活することができるようになったといいます。 死を覚悟することは、よりよく生きる覚悟につながるものなのです。 【73 ご意見番や伝道師ではなく、自分らしく生きていく】 『私、がんとか死とかの伝道師みたいになってるけど、私だって、死んだことないんだから、分からないわ。』 経験を積んだ芸能人がいつのまにか「ご意見番」と呼ばれる存在になることがよくあります。 俳優や歌手、タレント、芸人と仕事は様々ですが 、テレビのワイドショーなどに登場して世の中の出来事について自分の意見を口にします。 樹木希林も癌になって以降、新聞や雑誌など様々なマスコミのインタビューを受け、癌や死に対する考え方などを話す機会が増えましたが、そこには「ご意見番」 的な押し付けがましさはありませんでした。 娘の内田ややこによると、晩年には、「私、がんとか死とかの伝道師みたいになってるけど、私だって、死んだことないんだから分からないわ」 と言っていたといいます。 樹木が亡くなった後、 樹木に関する たくさんの本が出ていますが、樹木自身は自分で自分について本を書くことはありませんでしたし、誰かに書いてもらおうとも思っていませんでした。 フリーライターの武田砂鉄によると、「私が私のことを一番よく知っているのに、誰かに書いてもらおうなんて思わないわ 」と静かに笑う姿が印象的だったといいます。 樹木は自信を持って人生を歩みながらも、それを誰かに押し付けることはありませんでした。 【74  生きるのも死ぬのも上手でありたい】 『最後は娘に上出来❗ と言ってもらいたいと思うわね。』 樹木希林さんの両親は2人とも74歳で亡くなっています。 母親はすい臓がん、父親は心臓病でしたが、ともに「床に伏して1週間ぐらいで」亡くなっており 、そんな両親を見てこう思ったといいます。 「子どもとしては、とてもありがたくて、上出来 ❗と思いました」 樹木は「上出来」 という言葉がとても好きで、自らの人生についても 「誰も言ってくれないから、自分で言うけれど、 私は自分の人生『 上出来』だと思っていますよ」 と話しているほどです。 樹木によると、「人生 、上出来だわ」と思っていると、愚痴や不満を口にすることはなく、たとえ物事がうまくいかなくても常に前向きに生きていくことができるといいます。 そんな樹木だけに、自分も「両親と同じように 最期は娘に上出来❗ と言ってもらいたいと思うわね」 と話していましたが、 ややこが「動きの一つ一つが最期に向かっていたんだな」と感心するほど まさに樹木の思い描いた通りになったようです。 樹木は「今の人たちは死に上手じゃなくなっちゃってるよね」 と話していましたが、 樹木自身は生きるのも上手なら、死に際も上手な、そんな人生でした。 【76 人を頼らず、依存せず、自分で考える人であれ】 『私の話で救われる人がいるって❓ それは依存症というものよ。自分で考えてよ。』 2018年に樹木希林が亡くなると、テレビや雑誌などが、生前樹木が口にしていたたくさんの名言を紹介するようになりました。 本書もそうですが、樹木 の言葉を集めた本もたくさん世に出ました。 生前、樹木のインタビューを行ったことのあるフリーライターの武田砂鉄 によると、樹木は言葉に厳しい人でした。 習慣や常識をなぞるだけの言葉を嫌い、自らの言葉を吟味し、かといってそれを他者に押し付けることもせず、「どうぞ、ご自由に」 と相手に委ねた人でした。 全身癌を公表して以来、 樹木のところには「老い」や「死」に関する取材が殺到したといいます。 そんな依頼に対し、 樹木は「私が取材を受ける メリットはどこにあるの❓」 と質問します。 「あなたの話で救われる人がいる」という返答に対し、樹木はこう言いました。 「私の話で救われる人がいるって❓それは依存症というものよ。自分で考えてよ」 樹木によると、自分はどうしたいか、何をするべきかについて、自分の頭で考えることが大切なのです。 時に人に頼るのも構いませんが、もし誰にも助けを求められない時には、自分で考えるほかないだけに、人を頼らず、依存せず、自立することが何より大切なのです 。 【78  「人は皆違う」と知ってこそ、人を理解できる】 『陽が当たりすぎて枯れるかと思えば、日陰だからきれいに咲く花もある 。』 この一文は将来教師を目指す若者に向けて樹木希林が書いた手紙の一節です。 教師というと、どうしても勉強を教える仕事と思われがちですが、 樹木 はそれだけではなく「寄り添い、共に育つこと」が大切だと説いています。 そしてそのために欠かせないのが、「法華経」 にある「太陽も風も雨も、わけへだてなく降り注ぐけれども、木の持つ性質でうまく育つものもいれば、根腐れする樹もある、 陽が当たりすぎて枯れるかと思えば、 日陰だからきれいに咲く花もある」という教えでした。 木や草花には様々な種類があり、日向(ひなた)を好むものもあれば好まないものもあります。 あるいは、たっぷりの水を必要とするものもあれば、そうでないものもあります。 人間の持つ性質も様々です。 同じように教え導いても、その学び方や感じ方は様々で、みんなが同じように育つわけではありません。 樹木は教師という大変な仕事を目指す若者に「生徒は一人ひとり違う」ということを頭に入れたうえで教え導くことこそが大切だと伝えたかったのでしょう。 教師に限らず、「人は皆違う」と知ってこそ、人は人を理解することができるのです。 【79  「どう見られるか」よりも「人としてどう生きるか」】 『おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい。』 この言葉は樹木希林の葬儀で、喪主代理を務めた娘の内田やや子が「いつか言われた母の言葉」として紹介したものです。 いずれも簡単にはできないことですが、中でも最も難しいのが「他人と比べず」です。 樹木は小学校の運動会に出てもいつもビリでしたが、父親に「恥ずかしい」と言われても全く気にならなかったと言います。 理由は「頭が悪かったわけではなく、人と比較しなかった」からで、後年 、「今となっては、それが良かった」とも話しています。 たいていの人は自分と他人を比べたがるものです 。 ましてや 芸能界の人間なら人気やギャラ、賞など嫌でも比較がついて回るはずですが、「 自分が自分の作品を批評する」ことはあっても、 他人の批評は気にしないといいます。 理由は「他人と比べると価値観がフラフラしちゃうから」であり、それが 樹木の比較とは無縁の生き方につながっています。 他人の批評ばかりを気にしていると、「他人によく言われたいから」「他人によく見られたいから」と自分らしい生き方ができなくなってしまいます。 「はたからどう見られるか」ではなく、「人としてどう生きるか」を大切にした、いかにも樹木 らしい言葉だったのです 。 【80  形だけでも笑ってると嫌なことから抜け出せる】 『しんどいんだけど、その時に、「しんどい」って顔をしないで、笑うの。笑うのよ。』 しんどい時は辛い時、 人はどうしても暗い顔になりがちですが、そんな時にも「笑う」方がいいというのが、樹木希林の持論です。 樹木によると、 昔の井戸の手押しポンプはいくら シュポシュポ をしても最初は空気しか出てこないことがありましたが 、 そんな時にも呼び水をしたり、こりずに シュポシュポ やっているうちに だんだん水が汲み上げて来て、そのうち一気に出てくるようになったといいます。 人間もそれと同じことです。 たとえ しんどくても、樹木はしんどい顔をせず、自分で自分に「あんた、頑張ったわよ」と言いながら、自分の頭をなでて笑っていたといいます。 そうやって笑いながら、「いいなあ、い いなあ」 と 声に出します。 気持ち的にはしんどいわけですから、本来、笑う どころか泣きたい気持ちですが、それでも形だけでも笑い、自分で自分をほめているうちに、 徐々に嫌なことは忘れ、 こわばっていた表情も少しずつほぐれて本当に笑えるようになってくるのです。 気持ちはどうあれ、「顔で、形で、嬉しいっていうふうにしているうちに、忘れちゃう」というのが 樹木のしんどさから抜け出す知恵でした。 樹木希林 80の言葉 自分らしい生き方を貫く